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ヨーロッパで無双した最強の王族ハプスブルク家とは?

皆さんは中世・近世のヨーロッパについてどのようなイメージを持っていますか?「王様が絶対王政の王国に君臨しているイメージ」を持っている方が多いのではないでしょうか?今回は絶対王政の勝者、最強の王族ハプスブルク家について書きたいと思います。

ハプスブルク家

近世のヨーロッパは、それまでの封建的な諸侯と王の関係から絶対王政に移行した時期であり、イギリス、フランス、スペイン、オーストリア、ロシア、、、各地で強大な権力を持つ絶対王政が築かれていきました。

そんな時代の最中、大航海時代で世界を制したスペイン王国やオーストリア帝国を同時に支配するほどに権力を持っていた王族がいました。ハプスブルク家です。当時のハプスブルク家はヨーロッパを支配する王族といっても過言ではないほどに権力を持っていました。

ハプスブルク家はなぜこのようにヨーロッパで権力を持つに至ったのでしょう?ハプスブルク家とは一体何者なのでしょうか?

神聖ローマ帝国の王

ハプスブルク家はもともとスイスの田舎の一族にすぎませんでしたが、神聖ローマ帝国の王に選ばれたことによって繁栄を始めます。神聖ローマ帝国は、中世ヨーロッパで最も力を持っていたフランク王国から分裂した東フランク王国がルーツの国家です。

神聖ローマ帝国は、金印勅書というルールに基づいて、7人の有力な選帝侯に選んでもらうことで国のトップを決めていました。7人で選挙を行なって国のリーダーを決めるのです。1273年、ハプスブルク家の男がルドルフ1世として神聖ローマ帝国の王に就任します。

ルドルフ1世が、神聖ローマ帝国の王様として選んでもらったことからハプスブルク家の繁栄は始まります。以後、選挙で選ばれるはずの神聖ローマ帝国の王様はハプスブルク家がほぼ独占的に就任し、事実上の世襲になっていました。

婚姻政策

ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の王位を独占し権力を高めていきました。しかし、ハプスブルク家が成功した最も重要な理由はこれではありません。婚姻政策です。ハプスブルク家は、ヨーロッパの王族たちと政略結婚を繰り返して、ほぼどこの国にもハプスブルク家がいる状態を作り出しました。ハプスブルク家は、とても子供の数が多い家系だったので、この戦略がとてもうまくいってしまいます。

当時ヨーロッパで最大の繁栄を誇っていたネーデルラント地方(今のオランダ・ベルギー)、スペイン、シチリアと言った有力な地方にどんどん家族を送り込んでいきました。

そんなこんなしてるうちにハプスブルク家のカール5世が、大航海時代で世界帝国になったスペインの王様になってしまいます。カール5世はスペインではカルロス1世と呼ばれていましたが、同一人物です。

こうしてハプスブルク家は、婚姻政策でついに世界帝国を支配するほど権力を持ってしまったのです。

オーストリア帝国

その後、婚姻政策で手に入れたスペインと地元のオーストリアを支配していたハプスブルク家は、スペインハプスブルク家とオーストリアハプスブルク家に分裂します。スペインはその後広大な植民地を管理できなくて没落していきますが、オーストリアハプスブルク家は、ウィーン包囲と呼ばれるオスマン帝国の襲撃を撃退し国力を増強させていきます。オーストリアハプスブルク家はこうしてヨーロッパの大国としての地位を築き上げました。

ちなみにオーストリアというとそこまで大国のイメージはないかもしれませんが、第一次世界大戦くらいまではヨーロッパにおける非常に伝統的で大きな国家でした。

オーストリア継承戦争

ここまで順調に成功してきたハプスブルク家ですがついに危機が訪れます。

当時の神聖ローマ帝国内では、ブランデンブルク選帝侯であるホーエンツォレルン家が台頭してきていました。

そんな中、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝が死にました。事実上ハプスブルク家の独占状態の帝位でしたか、当時のハプスブルク家には王位を継承できる男子はおらず、マリアテレジアという女性が帝位を継承するということになっていました。これを聞いたホーエンツォレルン家は女性が継承するのはおかしいと異議を申し立てました。この時代は女性が皇帝になるという考えはあまりありませんでした。

こうして、ホーエンツォレルン家が支配するプロイセンとハプスブルク家が支配するオーストリアにおいて、神聖ローマ帝国の帝位を巡った戦争が始まります。これがオーストリア継承戦争です。

結果的にオーストリア継承戦争はハプスブルク家が少し領土を奪われましたが、マリアテレジアの夫が帝位に就くことで終結しました。

マリアテレジア

神聖ローマ皇帝はマリアテレジアの夫ですが、オーストリアは実質マリアテレジアによって支配されていました。オーストリアの首都ウィーンのシェーンブルン宮殿でマリアテレジアはオーストリアの激動の時代を築きます。

オーストリア継承戦争からオーストリアとプロイセンの緊張関係は高まっていました。そこでマリアテレジアは、プロイセンの更に西側の大国フランスのブルボン朝と政略結婚を執り行います。その時にフランスに嫁いで行った女性こそが、あの有名なマリーアントワネットです。マリーアントワネットはフランス革命の際に王政の堕落の象徴のように扱われ処刑されますが、もともとはオーストリアのお姫様だったのです。

当時のハプスブルク家とブルボン家はヨーロッパの王族の中でも絶大な権力を誇り共にライバル関係でした。よって、ライバル関係出会ったハプスブルク家とブルボン家が手を組んだということは外交革命と呼ばれました。これはそうせざる得なかったほど、プロイセンのホーエンツォレルン家が台頭してきていたということを表しています。

ナポレオンの台頭

1789年、ヨーロッパの絶対王政に終わりを告げる事件が起きました。フランス革命です。フランス革命によってブルボン家は倒されて絶対王政の時代から国民国家の時代へと移行していきました。

この時にハプスブルク家のマリーアントワネットは処刑されてしまいます。

フランス革命後のヨーロッパで最も大きな出来事とも言えるのは、ナポレオンの台頭です。ナポレオンはフランスの軍人でしたが、戦争が上手かったということもあり実力でフランス帝国の皇帝にまで上り詰めました。

ナポレオンはヨーロッパをどんどん侵略していき、ついには神聖ローマ帝国を事実上滅ぼしました。この時の神聖ローマ帝国はすでにオーストリアはオーストリア、プロイセンはプロイセンというようにそれぞれの領土で自治が行われており、神聖ローマ帝国という結びつきは小さいものでしたが、ナポレオンはオーストリアなどの大国に属していない地域を侵略して神聖ローマ帝国という体制を解体しました。

ハプスブルク帝国崩壊

ナポレオンの時代が終わるとヨーロッパの秩序はウィーン体制と呼ばれるものに移行していきました。オーストリアのハプスブルク家はこのウィーン体制下において中心的な立場にありました。

しかし、オーストリアの力は全盛期のものではなく、後のドイツであるプロイセンや後のイタリアであるサルデーニャ王国などの新興国の台頭もあり、ハプスブルク家は東のハンガリーと手を組むことにしました。こうしてオーストリアはオーストリアハンガリー帝国となりました。多民族が一つの国家に暮らすことによって民族間の対立という問題が浮き彫りになっていきます。

そしてついに、オーストリアの王様がセルビア人に殺される問題が発生し、第一次世界大戦へと突入しました。オーストリアは戦争に敗北してハプスブルク家の王様は亡命し、歴史あるオーストリア帝国は滅亡しました。

最後に

神聖ローマ帝国、フランス革命、ナポレオン、第一次世界大戦など、、ハプスブルク家の歴史を見てみると世界史におけるヨーロッパの有名な出来事に多く関わっているということがわかります。ハプスブルク家がヨーロッパにおいて重要な一族だったということがよくわかります。世界史は様々な立場から客観的にみることが多いですが、たまには一つの民族、王族の立場に立って主観的に考えてみるのもいいかなと思います。

次回は、

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